神経症の人が生活にゆとりをとり戻す方法 190

counselor

2014年02月23日 06:18

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「神経症の人が生活にゆとりをとり戻す方法」を、述べます。

神経症の人は、時間に追われた生活になりがちです。
ゆとりを持って生きることが、できません。

ある人は、いつも身体のことが気になります。
少しでも身体がだるいと、大きな病気かもしれないと心配します。

その結果、生活にゆとりが持てないのです。
ゆとりが持てないから、生活はギクシャクしたものになりがちです。

たとえ本当に大きな病気の人でも、気持ちにゆとりが持てれば良いのです。
その人の生活は、ギクシャクしたものになりません。

本当の問題は、「ゆとりのなさ」にあります。
何ごとも「ゆとりのなさ」は、ハイパーにその人を動かします。

現実に何も身体に問題はないのに、病院に頻繁にいきます。
同じ検査を何度も繰り返します。

その結果、生活時間と生活費のほとんどは病院の支払いに充てられます。
後ろ向きな生活に、なってしまうのです。

生活そのものは、前には進みません。
常におびやかされた生活です。

その本質は、「神経症的不安」にあります。
「神経症的不安」が、身体に非生産的なこだわりをうむのです。

よっていくら検査を繰り返しても、安心することはありません。
医師が音をあげるか、医師に不信感を向けるかです。

そこからドクター・ショッピングが、始まるのです。
どの病院に行っても、安心できません。

このような悪循環におちいる人は、子供の時に大きな病気をした人に多いのです。
子供の時の病気を、まだ引きずっています。

幼少時にその人の病気のみに、家族の気持ちが向かっていたのです。
その結果、小さな身体の変化に敏感なのです。

あと子供の時に、虐待を受けた人にも多いのです。
子供の時の虐待を、引きずってしまうのです。

虐待は、子供にはどうしようもできないことです。
自分の力の、及ばないことです。

その「自分の力の及ばないこと」に、人格形成時に虐待を受けた人はいました。
その結果、病気のような「自分の力の及ばないこと」を極度に恐れます。

そこから「すぎたるは、及ばざるがごとし」という、迷路に入ってしまうのです。
ある女性をモデルに、述べてみたいと思います。

この人は、病気を恐れています。
それも死ぬかもしれない、重い病気です。

早期発見をすれば、たすかるかもしれない病気です。
それゆえに、検査を繰り返します。

身体のほんのささいな変化を、気にかけます。
ほんの少しの痛みや、はれを気にします。

この人の父親は、何年か前に癌で死んでいました。
それも死ぬかもしれないと言う不安を、強めました。

父親が死んだときの姿が、フラッシュ・バックします。
そのフラッシュ・バックにも、苦しみました。

常に母親に、癌ではないことの確認を求めます。
「私は、癌ではないね・・・」と繰り返すのです。

初めのうちは、母親も「へいき」と答えます。
しかしそのやりとりが重なるうちに、不機嫌になります。

そして怒り出します。
その人はそれを聞いて、落胆します。

自分が受け入れられなかったゆえに、苦しみも深まります。
フラッシュ・バックの程度も、深刻になります。

そこで同じように友人に癌ではないことの確認を求めます。
また「私は、癌ではないね・・・」と繰り返すのです。

このことの繰り返しです。
生産的に、前に進むことはありません。

この人も、いくつかのカウンセリングを体験しています。
あるカウンセラーは、この人のこころの中を指摘しました。

そのカウンセラーは、「内的な攻撃性」を指摘しました。
その攻撃性が、出口を求めていると語りました。

この人はそう言われても、チンプンカンプンです。
まったく思い当たることは、ありません。

このような「内的な攻撃性」を指摘するのは、精神分析療法に多いのです。
多くの場合、本人はそう言われてもチンプンカンプンです。

自分自身で納得できる、ことを知りたいのです。
そこで森田療法に、たすけを求めました。

森田療法は、説得力があります。
多くの人は、森田療法の本を読んで納得します。

森田療法では、「気にするから、それが悪循環になる」と考えます。
「その解決は『あるがまま』のきょうちにある」とするのです。

『あるがまま』が身につけば、悪循環から抜け出せるとします。
それは、『悟り』であるともするのです。

それを作業により行うのが、森田療法の特徴です。
なお森田療法は森田療法家により行われます。

この師弟関係が、いまの若い人にはなじみにくいのです。
森田療法には、戦前の日本社会の姿が潜んでいます。

ここでつまずく、若い人は多いのです。
この人もつまずき、認知行動療法に向かいました。

森田療法よりも、認知行動療法のほうが合理的です。
森田療法のような、師弟関係もありません。先生とは、対等な関係です。

その認知行動療法は、次のようにスタートしました。
「あなたの心配のプラス面と、マイナス面は?」

このように森田療法よりも、認知行動療法のほうが合理性にはたらき掛けます。
かつ自分なりの考えを、重視します。

それに質問は、先ずプラス面からスタートしています。
これにも、大きな意味はあります。

先ず、イエスです。
自分のしていることにも、プラスはあるという認識です。

この人の答えは、こうでした。
「心配しているから、手遅れにならない」

これがこの人の、こころの表面上にあるのです。
しかし芯にあるものは、まったく異なります。

多くの場合、芯にあるものは神経症的な不安です。
表面にあるものとは、まったく異なります。

ただし芯にある神経症的な不安に、直接触れる事はしません。
直接触れる事は、混乱を深めるだけである事が多いのです。

多くの場合、その神経症的な不安を導く考え方にアプローチします。
それを変えて、神経症的な不安を改善します。

神経症的な不安を導く考え方の一つは、「心配しているから、手遅れにならない」です。
それは心配のプラス面に、かくれていたのです。

逆に神経症的な不安を導く考え方は、心配のマイナス面にもかくれています。
その質問をします。

「あなたの心配のマイナス面は?」
この質問により、不安の本質により近づきます。

この人の答えは、こうでした。
「いつも心配しているから、心配に生活が妨げられます」

この人は24時間、心配している生活です。
何もできません。

心配が、生活をおおっているのです。
不安が、ただよってしまっているのです。

このような状態は、非生産的な不安に支配されているのです。
本当に体調が悪くて119番することは、生産的です。

不安が現実的な解決に進まないで、ただその不安に支配されているのです。
起こりそうもないことを、「どうしよう、どうしよう」と心配しているのです。

これは非生産的な不安の特徴です。
心配しても解決しないことを、心配しているだけです。

その心配の根底には、「過剰な自責感」があります。
自分を責めがちな傾向です。

すべてを自分の責任だと、考えます。
このような傾向に、巻き込まれているのです。

もし病気の発見が遅れたら、自分の責任だと考えます。
自分を、こんなように責めます。

それが身体にこだわる人の、特徴です。
すべてを自分の責任だと考えることは、苦しみを生みます。

それにすべてを自分の責任だと考えることは、すべて自己証明を必要とします。
「病院で検査をした、その結果は何も心配はなかった」しかし、検査ミスはあるかもしれない。

そう考えると、検査ミスをする病院を選んだ自分の責任だと考えます。
このようなことは、限りなく連鎖しがちです。

このように自分のしたことを、すべてOKだと考えることは不可能です。
それよりも、責任の限りない連鎖に陥りがちです。

心配はその連鎖そのものに、非生産性が含まれています。
それゆえに、カウンセラーは連鎖のマイナス性を指摘するのです。

心配の連鎖は、何ももたらしません。
生活を、ただ非生産的にするだけです。

さらにこの人は検査にも、のめりこんでいます。
身体の全てを把握することに、のめりこんでいます。

話は少し変わりますが、外出時に何回も鍵を閉めたか確認する人がいます。
その人も、この人と共通する要素があります。

自分では確認することにより、不安を弱めたいのです。
しかし確認すればするほど、逆に不安は強まります。

鍵を閉めたか確認する人は、このような迷路に入っています。
先ずその迷路に、気付くことです、

迷路に気付けば、半分は解決しています。
そこから出口を、見付ければ良いのです。

鍵の確認に関して言えば、こうなります。
「何回鍵を閉めたか確認しても、最後の1回しか確認していない」

そうです、「何回鍵を閉めたか確認しても、最後の1回しか確認していない」のです。
このように気付けばよいのです。

この人の病院の検査も、同じような性格を持っています。
何回検査しても、最後の1回しかしていないようなめんもあります。

鍵の確認と同じように、極端に検査を繰り返すことは迷路を深めます。
そこから、抜け出せなくしてしまうのです。

過剰な心配から抜け出せない人の、解決方法をさらに考えてみたいです。
まず「何回検査しても、最後の1回しかしていない」という自覚です。

この自覚により、方向は変えやすくなるでしょう。
後ろ向きから、前向きに変わりやすくなります。

このような自覚とともに、こころの法則も大切です。
それは「不安は最初の5分がピーク」という法則です。

正確には、次のようになります。
「不安は最初の5分がピークで、20分で慣れる」という法則です。

身体には、適応性があります。
不安を持ちながらも、適応しようとするのです。

そしてそれが「不安は最初の5分がピークで、20分で慣れる」という法則です。
この法則に、さらに踏み込んだ方法もあります。

その方法は、意識的にこころの中で不安を繰り返すのです。
この人の場合は検査と、健康不安です。

そのことを、こころの中で繰り返します。
20分ぐらい、繰り返すのです。

いつも心配していることを、集中的に心配する「心配タイム」をつくります。
その「心配タイム」にのみ、集中的に心配すれば良いのです。

この意識的にこころの中で不安を繰り返す方法は、不安に耐える方法よりも不安に働きかけます。
よって意志の力も必要です。

日常生活の中で、不安になったら「心配タイム」まで待ってください。
その「心配タイム」のときのみ、集中的に心配するのです。

異なる形式の、「心配タイム」の方法もあります。
その方法を述べます。

その「心配タイム」の方法は、回数で決めるのです。
心配を300回するというように、回数で決めるのです。

ただしこの方法では、短い言葉で繰り返すことになります。
その短い言葉は、分かりやすいものであることが大切です。

以前述べた、次のような言葉です。
「何回検査しても、最後の1回しかしていない」

このような短く、分かりやすいものです。
その言葉を、自分で考えるのです。

たとえば、次のような言葉でも良いのです。
「検査結果も、それに記入ミスもあったかもしれない」

このように、いつも心配している言葉でも良いのです。
前者のような性格の言葉でも、後者のような性格の言葉でもどちらでも良いのです。

ただしいつもの心配の程度の大きい人は、後者のほうがベターでしょう。
いつも心配している言葉を、飽和させられるからです。

心配している言葉を飽和させられれば、もうコップに水は入りません。
心配という水は、もう入らないのです。

このようにして、心配を飽和させればよいのです。
さらに、ものごとに対する姿勢も大切です。

そもそもこの世の中で、自分の思い通りになることは少ないのです。
いまのあなたは過去の願いに、どれぐらいよってあるのでしょうか?

いまのあなたは過去の願いに、沿ったものではないと思います。
過去の願いとは、異なったものにより決定されてきた要素が強いと思います。

将来はけっして自分により、すべて決定されません。
他の要素により、決定されることが多いのです。

この人も、「将来はけっして自分により、すべて決定されない」という事実と、
現実には「他の要素により、決定されることが多い」ことを、先ず知ることです。

そのときに、自分のコントロールに入らないことも受け入れられます。
受け入れられないから、苦しんでいるのです。

このような自覚により、改善することは多いのです。
しかしながら「解るけど、そうできない」という人も多いのです。

「解るけど、そうできない」という人のための、方法もあります。
それにより、正しい考え方を定着させるのです。

その方法を、述べたいと思います。
その方法はノートと鉛筆があれば、誰でもできます。

最初に考えるべきことは、確率です。
正確には心配していることが、実際に起きる確率です。

本人はとても心配していますが、「客観的にその心配はどの程度の事か?」ということです。
これから、先ず考えます。

心配しているを、完全に起きなくさせることはできません。
私たちが考えられるのは、心配していることが実際に起きる確率だけです。

そうすると自分の心配は、「それほど起きない」という結論に至ることもあります。
逆もあります。

前者は不安の弱い人です。後者は不安の強い人です。
それが分かったら、次の質問に進みます。

次の質問は、以下のものです。
「もし心配していることが最悪の方向に進んだら、どうなりますか?」

心配のベクトルを、マイナスに向けます。
そうやって心配の方向と、量を表してもらうのです。

そうしたら、さらに質問は続きます。
今度は、逆のベクトルの質問です。

それは、以下のものです。
「もし心配していることがベストの方向に進んだら、どうなりますか?」

今度は心配のベクトルを、プラスに向けます。
そうやって心配の肯定性の方向と、量を表してもらうのです。

このように心配のベクトルを、マイナスとプラスの両方向に向けたら次に進みます。
それは心配の妥当性に関する、質問です。

簡単に言えば、妥当性とは最もありそうなことです。
心配していることの結果の、最もありそうな姿です。

その質問は、以下のものです。
「心配していることの最も起きそうな結果は、どんなものですか?」

心配は最悪、最善の両方向に進む可能性はあります。
しかし多くの場合、普通に着地するものです。

その普通の着地点が、最も起きそうな結果です。
妥当性です。

次はこの妥当性をもとに、考えていきます。
「妥当なことよりも悪い結果を、予測してしまう」ことの不合理さの検証です。

次の質問により、検証します。
「心配していることが起きるという、根拠はどんなものですか?」

心配していることは起きるかもしれないし、起きないかもしれません。
起きると考えうる根拠を、述べてもらいます。

そうすると多くの場合、起きる根拠はあやふやなものです。
それは「風が吹くと桶屋がもうかる」と、同じようなものがほとんどです。

もっとも「風が吹くと桶屋がもうかる」は、桶屋にはプラスです。
しかし心配性な人は、マイナスの結果に至ります。

どちらにしても、根拠はまったくあやふやです。
根拠のないことを、心配しているのです。

自分の心配には、根拠がないことを知るのです。
それだけでも、気持ちは楽になります。

心配には根拠がないことが理解されたら、次に進みます。
現実に自分のしていることは、不安の裏づけをしているだけかもしれません。

それを、考えてみるのです。そのための質問が、次のものです。
「あなたは不安の裏づけをしていませんか?」

この人は本やネットで、病気について調べ続けています。
だがそれは、不安の裏づけをしているだけかもしれません。

それよりも、定期的に健康診断を受けるほうが生産的です。
非生産的なものから、生産的な方向にチェンジすることが大切です。

自分の心配には根拠がないことを知るためには、次の質問も有効です。
「過去にあなたの心配は、空振りになったことはありませんか?」

多くの場合、神経症の人の心配は空振りであった事が多いのです。
それを思い出すだけでも、気持ちにゆとりをとり戻すことができます。

「今までも自分の心配は空振りだった」し、この心配も同じだろう。
そうであれば、そんなに心配しなくても良い。

このように考えられます。
そうすれば、ほっとします。

さらに自分の心配には根拠がないことを知るために、次のことにも注目しましょう。
それは「可能性を過大に考えていないか?」ということです。

ほんの少しの不快感を、病気の初期症状と考えていませんか?
現実に、少しの不快感を病気の初期症状と考えて苦しんでいる人は多いのです。

さらには、それを重大な病気の兆候とも考えていませんか?
このように、心配は最悪の方向に深まります。

当然、最悪の結果は死です。
自分は死ぬ病気に掛かっていると、考えるのです。

このようなこころの緊張は、常に自分を見張っています。
階段を上るとき、スムーズに進めたかと常に心配です。

常に自分を見張り心配していることが、さらに緊張を強めます。
このように悪循環は始まり、深まります。

その結果、重大な病気ではないかと考えてイメージが浮かんできます。
そのイメージに追いかけられます。

そのイメージのゴールは、「自分は重大な病気にちがいない」というものです。
気付かなければいけないのは、常に自分を見張り心配していることは、直接の解決にならないということです。

心配しても、現実は改善しません。
病気の心配をしても、現実には病気はよくなりません。

逆に病気を心配しすぎることは、すべてにマイナスです。
現実には、ストレスにより体調の変化もおきやすいのです。

自分の心配を改善するために、次のことにも注目しましょう。
それは「困ったとき、具体的にどうすれば良いか?」ということです。

特に病気に関しては、自分では何もできない面もあります。
治療は、医療スタッフにまかせるしかない面もあります。

そうであれば、健康診断をきちんと受けることの大切さに気付けば良いのです。
さらには食事や睡眠、規則正しい生活を心掛けることです。

自分のできる範囲を、きちんとすることが大切です。
それだけでも、心配のハードルはさがります。

もう一つは、「健康に対して(も)完ぺきさを求めすぎていないか」ということです。
上の文に(も)と入ったのは、神経症的な人はすべてに完ぺきさを求めすぎるからです。

この場合は、完ぺきさが健康に向かったのです。
何に完ぺきさが向かうかは、ケースバイケースです。

完ぺきさが健康に向かった人は、身体に必要以上に注意を向けます。
ある人は、皮膚がんを恐れていました。

少しでも、皮膚の色が異なると心配です。
皮膚がんではないかと、心配で心配でしょうがありません。

このように完璧さを求めて、迷路に入るのです。
ただしそのこころの一つ下には、現実的な不安がひそんでいます。

それは病気になると、「失業するかもしれない」というようなものです。
さらにその延長線上で、住宅ローンが払えなくなるということに至ります。

逆に言えば、ひそんだ現実的な不安に引っ張られているともいえます。
健康不安は、現実的な不安に引っ張られて出てきたものだということです。

その現実的な不安を、解決するようにすることも大切です。
多くの場合、現実的な不安も心配しすぎであることも多いのです。

次のように、連鎖するのです。
病気になるかもしれない⇒失業するかもしれない⇒住宅ローンが払えなくなるかもしれない

この連鎖全体には、一つの傾向があります。
それは不安感です。

その不安感こそが、完全主義に向かわせます。
正確には後ろ向きな完全主義に、向かわせるのです。

この後ろ向きな完全主義こそが、改められなければいけません。
後ろ向きは前向きに、完全主義はのんびり主義に改められなければいけません。

すなわち、次のようになります。
【後ろ向きな完全主義】⇒【前向きなのんびり主義】

この【前向きなのんびり主義】を身につけることこそが、大切です。
それにより、健康不安も解決します。

次にその【前向きなのんびり主義】を身につける方法を、述べます。
紙と鉛筆を用意してください。

そして身体に必要以上に注意を向けることのプラス面と、マイナス面を書き出してください。
これにより、大切なことが分かります。

多くの場合、マイナス面が多いのです。
本質はその人の不安にあります。

その人の不安が、その人そのものをおおっているのです。
現実には、何もあります。

だから【前向きなのんびり主義】により、不安を取り去ることです。
この自覚が、大切です。

【前向きなのんびり主義】を身につけるためには、身体の痛みや感覚は信号だと考えることも大切です。
身体の痛みや感覚は、黄色の信号です。注意しろと言う信号です。

道路の黄色の信号でも、注意して横断することは大切です。
身体の痛みや感覚の黄色の信号も、同じです。

ただし道路の信号も、注意しすぎれば横断できなくなってしまいます。
同じように身体の痛みや感覚の信号も、注意しすぎれば生活できなくなってしまいます。

即ち「すぎたるは、およばざるがごとし」です。
何ごとも、そこそこで良いのです。

完全な健康はないのです。
そこそこの健康しか、ないのです。

どうしても心配な人は家族や、友人に次のように尋ねてください。
「身体に少しの痛みや不快感を感じたら、どう考えますか?」

多くの場合、放っておいたら自然に消えた。
このような答が、返ってきます。

神経症の人は、不安を放っておけないのです。
逆にそれを、追究します。

不安は追えば追うほど、大きくなります。
その結果、自分で持ちきれなくなります。

神経症の人が生活にゆとりをとり戻すためには、「不安を放っておく」ことこそが最初の一歩です。
放っておければ、何も起きません。

放っておけないから、困ったことになるのです。
荷物になるのです。

その荷物の重さに、生活はせばめられてしまいます。
身動きできなくなります。

そんな悪循環から抜け出すためには、前向きに健康増進を考えたほうが賢明です。
ウォーキングをしたり、体操をすることです。

心配に使う労力をウォーキングや、体操にふり向けます。
前向きな解決こそが、本当の解決です。

先ず、非生産的な不安の悪循環から抜け出すこと。
そのために、前向きに生きることが大切です。

神経症の人は、現実生活でがまんしている事が多いのです。
そのがまんが、身体の不調につながるとも言えます。

ある高校生は、お腹のことがいつも気がかりです。
胃がもたれているような、気がするのです。

このように身体のことを心配する人は、現実生活でがまんしていることが多いのです。
そのがまんが、身体の不調につながっていると言えます。

この高校生も、がまん人間です。
現実生活でがまんしていることが多いのです。

カウンセラーは、先ずがまん人間の現実生活でのがまんを聴きます。
そこから、アドバイスします。

がまん人間のがまんを聴くだけでも、大きな効果はあります。
その人のがまんに、風穴を通せるからです。

がまんに、風穴を通したら次に進みます。
その人の現実のがまんを、解決するための方法を考えます。

次回に、さらに述べます。

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