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今日も、神経症の人の「思い込み」を述べます。
神経症の人は歪んだ思い込みに支配され、身動きできない状態です。
歪んだ思い込みはその人の生活も、奪いさってしまうのです。
よって、マイナスをプラスに変える方法が必要です。
マイナスをプラスに変える考え方を、身につけていきましょう。
それが前向きな解決です。
マイナスをプラスに変える考え方を身につければ、ミスを恐れて何もできない状態から抜け出せます。それは大切です。
これからそのマイナスをプラスに変える考え方を、説明します。
そうすればこころの葛藤は、消えていきます。
多くの場合、神経症の人はささいなことを大きなことにしてしまいがちです。
そのこころのメカニズムは、自己否定によるものです。
自分のした「こと」が悪いだけです。
そしてそのした「こと」も、すべての中のほんの一部なのです。
そうならば、これからは自分のする「こと」を変えていけばいいのです。
人生は新しい学びの、プロセスとも言えます。
さらにこれを発展させた、マイナスをプラスに変える考え方を述べます。
私達は、ミスは行き止まりだと考えます。しかし、単純にそう言えますか?
「失敗は成功のもと」とも、言えるのです。
失敗から、私達は学べるのです。
そう考えれば、けっしてミスは行き止まりではありません。
逆に、ミスは新しいスタートです。
「失敗は成功のもと」と考えられないから、失敗から学べないのです。
その結果、「失敗」は失敗でしかなくなってしまうのです。
このように「失敗」は失敗でしかないのが、「本当の失敗」です。
「失敗は成功のもと」にするように、考え方を変えることこそが大切です。
さらにこれを発展させた、考え方を述べます。
それは「失敗は新しい挑戦の場」です。
こう考えれば、失敗もフレッシュな体験になります。
これはとても、大切です。
このことは、子供の水泳の練習によく当てはまります。
泳げないと、すぐにあきらめてしまう子供もいます。逆の子供もいます。
後者の泳げなくてもすぐにはあきらめない子供は、挑戦的な子供です。
何事にも、意欲的にチャレンジします。
意欲的にチャレンジするがゆえに、泳げるようになります。
この成功体験により、より意欲的にチャレンジするようになります。
逆に泳げないと、すぐにあきらめてしまう子供は何事にも消極的です。
この消極さが、悪循環をさらに強めます。
すぐにはあきらめない子供は、何事にもくじけないねばり強さを持っています。
人生の困難に、打ち負かされなくなります。
このような視点から、考えることはとても大切です。
そうすれば、「失敗は新しい挑戦の場」に変わるのです。
それをさらに深めると、「もっと頑張ろう!」という発想も出てきます。
失敗したら、「もっと頑張ろう!」でいいのです。
これは失敗の原因を、自分の能力に帰属させない方法です。
そしてそれは、とても前向きなものです。
逆に失敗の原因を、自分の能力に帰属させる人もいます。
これは、とても後ろ向きなものです。
後者の失敗の原因を、自分の能力に帰属させる人はチャレンジ精神も失います。
これからどんなに努力しても、自分の能力ゆえにだめだと考えがちです。
無力感に支配されて、悪循環から抜け出せなくしてしまうのです。
その原因は、失敗の原因を自分の能力に帰属させたことによります。
よって失敗の原因を自分の能力に帰属させないで、努力に帰属させるべきなのです。
これこそが、前向きな解決です。
失敗の原因を努力に帰属させれば、失敗に負けない前向きな生き方もできます。
現在、新卒者の短期離職が問題化しています。それは前向きな解決のできないケースが、多いためです。
次に、マイナスの思いこみに気付く考え方を述べます。
今までのマイナスをプラスに変える考え方と似ていますが、多少異なります。
マイナスの思いこみに気付く考え方の土台は、「本当は失敗ではなかった」というものです。
表面上は失敗に見えても、「本当は失敗ではなかった」ということは多いのです。
そもそも私達の人生は、オセロのような性格を持っています。
そのときは失敗に見えても、「本当は失敗ではなかった」という経験は誰にでもあります。
そのときの失敗は将来、成功するために必要なのです。
ただしそのためには、前向きな姿勢が必要です。
前向きな姿勢を保ち続けなければ、「災い転じて福となす」ことはできません。
その姿勢こそがいまの失敗を、将来の成功に変えるのです。
この「災い転じて福となす」を応用させた、考え方もあります。
それは「自分のできる、ほかのことをしよう」です。
神経症の人は視野が、狭くなりがちです。
よって一つのことがうまくいかないと、すべてダメだと考えがちです。
たとえば日本人初の走り幅跳び8メートルジャンパーである山田宏臣選手は走り高跳びの選手でした。その人は走り幅跳びにチェンジして、日本一になったのです。
このような大きなことでなくても、視点を変えることは大切です。
視点を変えるだけで、よくなることも多いのです。
ある人は、自分の必要とする本が書店にありませんでした。
東京中の書店で、在庫切れでした。ここから気持ちの悪循環が、始まりました。
その本は、もう手に入らないのだ。「もうダメだ」と、考えたのです。
このように発想が、固定化しているのです。
古書店や、図書館にはあるかもしれません。
この人は古本や、公的にある本はダメなのです。
自分の必要とする本は新しく、手もとにいつもないとダメなのです。
それゆえに、苦しんでいたのです。
そもそも今、その本は手もとにいつもないとダメと考えますね。
しかし時間がたてば、そうでないことも多いのです。
もっと必要な本が、出てくることも多いのです。
そうであれば古本や、公的にある本でいいのです。
いまの自分の考えに、こりかたまり柔軟な考えができません。
それゆえに、苦しんでいるのです。
「自分のできる、ほかのことをしよう」と考えれば、古書店や図書館に行けばいいのです。
それだけのことです。
さらにこの「自分のできる、ほかのことをしよう」を応用させた、考え方もあります。
それは「自分の今できそうなことに、目を向ける」です。
これは葛藤で身動きできない人に、効果的な考え方です。
葛藤で身動きできない人は、こころにゆとりがなく「自分の今できそうなことに、目を向ける」こともできません。
よって葛藤で身動きできない人は、「自分の今できそうなことに、目を向ける」ことそのことによりぱっと目の前が開かれます。
ある男子大学生は、ガールフレンドのことで悩んでいました。
そのガールフレンドは、支配的な性格だったのです。
ガールフレンドの支配的な性格ゆえに、まったく主導権のもてない状態だった。
それゆえに、まったく身動きできなかった。
そこで、「自分の今できそうなことに、目を向ける」ことにしました。
当然、ガールフレンドの支配的な性格ゆえにぶつかり合いました。
その結果、そのガールフレンドを必要としていない自分に気付きました。
「自分の今できそうなことに、目を向ける」と、ある意味で人を必要としなくなるのです。
自分のできそうな範囲に目がいきますから、人を必要としなくなるのです。
自分が自分自身の、主体になれるのです。
やがてその人は、ガールフレンドの支配的な性格に、嫌気がさしました。
主導権のもてない、まったく身動きできない状態に嫌気がさしたのです。
その人はガールフレンドとの交際よりも、自分の生活を大切にするようになりました。
軸足を自分自身の生活に、移したのです。
そうすると自然に、その人はガールフレンドに拘束されなくなりました。
ノーはノーと、はっきりと言うようになったからです。
そのとき同時に、自分の生活を見直してみたのです。
それは「ガールフレンドの支配的な性格は、自分にとってプラスなのか?」と、いうものでした。
このことにもノーはノーと、はっきりと言うべき時がきたのです。
それは、先延ばしにされてきたことです。
このように「自分の今できそうなことに、目を向ける」と、ある意味で人を必要としなくなり、別の可能性に目も向いていくのです。その結果、ガールフレンドの支配的な性格ゆえに別の道を歩むことにしました。
葛藤で身動きできない人は、「ダメだ」と諦めがちです。
しかし、これからは「自分の今できそうなことに、目を向ける」ようにしましょう!
そうすれば、新しい道を歩めるのです。
今の道は、必ずしもベストではありません。
この「今の道は、必ずしもベストではない」ということから、導き出される考えがあります。
それは「成功、失敗はそれほど問題ではない」ということです。
これも葛藤で身動きできない人に、効果的な考え方です。
そもそも成功や、失敗にこだわると視野が狭くなります。
この視野が狭くなることにより、成功や失敗はさらに重大視されるのです。
よく考えてみれば、「人間万事塞翁(さいおう)が馬」なのです。
【昔、中国に住んでいた老人の馬が逃げたが、数か月後、優秀な馬を連れて帰ってきた。その老人の子がその馬に乗り落馬して足を折ったが、おかげで兵役を免れて命が助かった】というお話が、「人間万事塞翁(さいおう)が馬」のゆらいです。
このようにそのとき不幸だと思ったことも、後で幸福に変わるのです。
人生はオセロのようなものです。
よって「成功、失敗はそれほど問題ではない」のです。
そのときの「成功、失敗を問題視」することは、まったくありません。
失敗は「馬が逃げた」や、「子がその馬に乗り落馬して足を折った」です。
成功は「優秀な馬を連れて帰ってきた」や、「兵役を免れて命が助かった」です。
大切なことは失敗と成功が、連なっているということです。
一つの大きなストーリーの、一部だということです。
さらにこのことから、導き出される考えがあります。
それは「勉強になった」ということです。
これも葛藤で身動きできない人に、効果的な考え方です。
これは「失敗がすべてではなく、勉強になったこともある」ということです。
何ごとも、勉強でもあります。
たとえば就職先を比較的はやく退職することになっても、仕事そのものもそれを通しての人間関係も学びました。
けっして、マイナスだけではありません。
プラスもあります。
ただ後者(プラス)に、気付かない人がいるだけです。
その気付かないことが、ミスなのです。
多くの場合、マイナスにだけ目がいきがちです。
その結果、プラスに気付きません。
プラスに気付けば、マイナスにだけ目もいきません。
そして、さらにプラスに気付きます。
それに本当の意味で失敗であるか成功であるかは、人生の最後の日まで分かりません。
誰にも、分かりません。
ただ「失敗がすべてではなく、勉強になったこともある」ということのみが、いま分かるのです。
これは大切です。
さらには、次のことも事実です。
それは「誰にでも、失敗はある」ということです。
これも葛藤で身動きできない人に、効果的な考え方です。
野田総理大臣でも、失敗はあります。
誰にでも、失敗はあります。
このように誰にでも失敗はあるのですから、失敗そのものは一般的なものです。
それを個人的なものに、自分だけのことにしてしまい苦しむのです。
自分だけが失敗し、誰も失敗していないと苦しむのです。
このように失敗そのものより、思い込みで苦しむのです。
失敗の経験を共有することにより、人間関係も前に進みます。
多くの場合、とても親しい人に失敗談を語ると人間関係は深まります。
そもそも成功した人は、多くの失敗を経験しています。
これが事実です。
我々は、成功した人の多くの失敗を見落としてもいるのです。
これも事実です。
このように、失敗そのものは一般的なものです。
人生の、一つの出来事です。
また次のことも、大切です。
それは、あなたの「失敗に気付いていないだろう」ということです。
これも葛藤で身動きできない人に、効果的な考え方です。
あなたが失敗したときに、多くの場合、誰もその「失敗に気付いていないだろう」ということです。あなたの失敗に対する主観的な苦しみが、そう思わせているだけです。
さらに神経症の人は、『人の噂(うわさ)も七十五日』と考えることもできません。
その結果、誰もその「失敗に気付いていないだろう」ことを、いつまでもくよくよ悩むのです。
ある高校生は、クラス全員の前で順番に「調べたことを一人で発表する」という国語の授業に強く不安を感じていました。その授業を欠席することも、考えるほどでした。
この高校生は、クラス全員の前で一人で発表するときに、あがってしまうことを恐れていたのです。
その恐れから、強く不安を感じていたのです。
この場合、誰もその「失敗に気付かないだろう」ということを見落としているのです。
それに気付くための、質問を用いてカウンセリングは行われました。
その質問は、「いままでクラス全員の前で一人で発表するときに、あがってしまった人はいますか?」というものでした。
この高校生はその質問に対し、次のように答えました。
「発表するときに、あがってしまった人はいないと思う。」
おそらくクラス全員の前で一人で発表するときに、あがってしまった人はいるはずです。
この高校生はそれに、気付いていないのです。
そのように自分も人の「失敗に気付かない」のですから、逆に人も自分の「失敗に気付かない」可能性のほうが高いのです。
しかしながら神経症的な人は、そう認められません。
自分だけは「失敗に気付かれている」と、マイナスに考えます。
そこには、マイナスの自己イメージがあります。
そのマイナスの自己イメージは、自分で自分を認められないがゆえのものです。
すなわち、そこには自分に対する否定的なイメージがあります。
その否定的なイメージが、他者は自分の「失敗に気付いている」とマイナスに考える土台になります。
自分自身を否定的にイメージするがゆえに、他者は自分の「失敗に気付いている」とマイナスに考えるようになります。そこには自分自身の認められなさが、潜んでいます。
この否定的なイメージを、前向きなものにすることこそがカウンセリングの目標になります。
次に神経症の人の「思い込み」は、目標そのものの不適切さによっても起きます。
この葛藤により身動きできない人は、「目標そのものは適切であったか?」と考えてください。
神経症の人のは、目標そのものを「何が何でも達成しなければいけにもの」と考えがちです。
それゆえに目標とその結果にしがみ付くことになってしまいます。
ただしその目標は、そもそも不適切なものかもしれません。
それに「失敗は成功のもと」の、失敗の可能性もあります。
「目標そのものは適切であったか?」と考えるために、高校生の例を述べます。
高校の文化祭でのことです。
文化祭の「お笑い大会」です。
高校生ですから当然ながら、対抗意識はあります。
それに「お笑い大会」ゆえに、誰が最もうまいのかも難しいのです。
運動会の、競争のようにはいきません。
この高校生は、「お笑い大会」での優勝を目的にしました。
何が何でも、優勝したいと思いました。
ありとあらゆる事を考え、そしてしました。
この人の結果は、おもわしくありませんでした。
そこで、「目標そのものは適切であったか?」と考えてみたのです。
この高校生は「お笑い大会」での優勝を目的に、ありとあらゆる事を考え、そしてしました。
だがしかし、この優勝を目的にすること自体が適切でしょうか?
そもそも高校生の「お笑い大会」ですから、楽しく行えばそれでいいのかもしれません。
それに優勝は、あくまでも結果です。
結論は内容が大切であることには、プロもアマもありません。
これこそが、かんじん要のことです。
この高校生は、かんじん要のことを横に置いてしまったのです。
そしてそれが、「目標そのものは適切であったか?」と考えてみたときに現れた答えです。
このように失意にある人は、自分を迷路に入れがちです。
それが最大のミスです。
さらにこのような神経症の人の「思い込み」として、「失敗は一巻の終わり」というものもあります。すなわち『失敗により物事の結末がすべてついてしまい、先の望みがまるでない』と考えるのです。
これは、神経症の人の否定的な「思い込み」です。
現実にはこの否定的な「思い込み」こそが、「失敗は一巻の終わり」にしてしまうのです。
失敗の側には、失敗の要因はないのです。
その人の否定的な「思い込み」こそが、失敗の原因です。
ある学生はレポートの提出後に、小さなミスに気付きました。
そのことが、心配でどうしようもありません。
それはほんの小さな言葉の、言いまわしです。
それが心配でどうしようもありません。
この人はその小さなことを、「失敗は一巻の終わり」と考えたのです。
すなわち「もう、先の望みがまるでない」と考えたのです。
この人は小さなことであるにもかかわらず、それも分からないぐらいの気持ちに陥りました。
それゆえに、「もう、先の望みがまるでない」と考えたのです。
このように神経症の人を苦しめるのは、自分の思い込みです。
事実ではありません。
事実はそれほどではないのに、神経症の人を苦しみます。
苦しめているのは、自分の思い込みだけです。
このような神経症の人の「思い込み」として、「完ぺき主義」も潜んでいます。
すなわち『すべては、完ぺきでなければいけない』と考えるのです。
次回に、さらに述べます。