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2012年02月09日

神経症の人の「思い込み」 344

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今日も、神経症の人の「思い込み」を述べます。

神経症の人は歪んだ思い込みに支配され、身動きできない状態です。
歪んだ思い込みはその人の生活も、奪いさってしまうのです。
よって、マイナスをプラスに変える方法が必要です。

マイナスをプラスに変える考え方を、身につけていきましょう。
それが前向きな解決です。

マイナスをプラスに変える考え方を身につければ、ミスを恐れて何もできない状態から抜け出せます。それは大切です。

これからそのマイナスをプラスに変える考え方を、説明します。
そうすればこころの葛藤は、消えていきます。

多くの場合、神経症の人はささいなことを大きなことにしてしまいがちです。
そのこころのメカニズムは、自己否定によるものです。

自分のした「こと」が悪いだけです。
そしてそのした「こと」も、すべての中のほんの一部なのです。

そうならば、これからは自分のする「こと」を変えていけばいいのです。
人生は新しい学びの、プロセスとも言えます。

さらにこれを発展させた、マイナスをプラスに変える考え方を述べます。
私達は、ミスは行き止まりだと考えます。しかし、単純にそう言えますか?

「失敗は成功のもと」とも、言えるのです。
失敗から、私達は学べるのです。

そう考えれば、けっしてミスは行き止まりではありません。
逆に、ミスは新しいスタートです。

「失敗は成功のもと」と考えられないから、失敗から学べないのです。
その結果、「失敗」は失敗でしかなくなってしまうのです。

このように「失敗」は失敗でしかないのが、「本当の失敗」です。
「失敗は成功のもと」にするように、考え方を変えることこそが大切です。

さらにこれを発展させた、考え方を述べます。
それは「失敗は新しい挑戦の場」です。

こう考えれば、失敗もフレッシュな体験になります。
これはとても、大切です。

このことは、子供の水泳の練習によく当てはまります。
泳げないと、すぐにあきらめてしまう子供もいます。逆の子供もいます。

後者の泳げなくてもすぐにはあきらめない子供は、挑戦的な子供です。
何事にも、意欲的にチャレンジします。

意欲的にチャレンジするがゆえに、泳げるようになります。
この成功体験により、より意欲的にチャレンジするようになります。

逆に泳げないと、すぐにあきらめてしまう子供は何事にも消極的です。
この消極さが、悪循環をさらに強めます。

すぐにはあきらめない子供は、何事にもくじけないねばり強さを持っています。
人生の困難に、打ち負かされなくなります。

このような視点から、考えることはとても大切です。
そうすれば、「失敗は新しい挑戦の場」に変わるのです。

それをさらに深めると、「もっと頑張ろう!」という発想も出てきます。
失敗したら、「もっと頑張ろう!」でいいのです。

これは失敗の原因を、自分の能力に帰属させない方法です。
そしてそれは、とても前向きなものです。

逆に失敗の原因を、自分の能力に帰属させる人もいます。
これは、とても後ろ向きなものです。

後者の失敗の原因を、自分の能力に帰属させる人はチャレンジ精神も失います。
これからどんなに努力しても、自分の能力ゆえにだめだと考えがちです。

無力感に支配されて、悪循環から抜け出せなくしてしまうのです。
その原因は、失敗の原因を自分の能力に帰属させたことによります。

よって失敗の原因を自分の能力に帰属させないで、努力に帰属させるべきなのです。
これこそが、前向きな解決です。

失敗の原因を努力に帰属させれば、失敗に負けない前向きな生き方もできます。
現在、新卒者の短期離職が問題化しています。それは前向きな解決のできないケースが、多いためです。

次に、マイナスの思いこみに気付く考え方を述べます。
今までのマイナスをプラスに変える考え方と似ていますが、多少異なります。

マイナスの思いこみに気付く考え方の土台は、「本当は失敗ではなかった」というものです。
表面上は失敗に見えても、「本当は失敗ではなかった」ということは多いのです。

そもそも私達の人生は、オセロのような性格を持っています。
そのときは失敗に見えても、「本当は失敗ではなかった」という経験は誰にでもあります。

そのときの失敗は将来、成功するために必要なのです。
ただしそのためには、前向きな姿勢が必要です。

前向きな姿勢を保ち続けなければ、「災い転じて福となす」ことはできません。
その姿勢こそがいまの失敗を、将来の成功に変えるのです。

この「災い転じて福となす」を応用させた、考え方もあります。
それは「自分のできる、ほかのことをしよう」です。

神経症の人は視野が、狭くなりがちです。
よって一つのことがうまくいかないと、すべてダメだと考えがちです。

たとえば日本人初の走り幅跳び8メートルジャンパーである山田宏臣選手は走り高跳びの選手でした。その人は走り幅跳びにチェンジして、日本一になったのです。

このような大きなことでなくても、視点を変えることは大切です。
視点を変えるだけで、よくなることも多いのです。

ある人は、自分の必要とする本が書店にありませんでした。
東京中の書店で、在庫切れでした。ここから気持ちの悪循環が、始まりました。

その本は、もう手に入らないのだ。「もうダメだ」と、考えたのです。
このように発想が、固定化しているのです。

古書店や、図書館にはあるかもしれません。
この人は古本や、公的にある本はダメなのです。

自分の必要とする本は新しく、手もとにいつもないとダメなのです。
それゆえに、苦しんでいたのです。

そもそも今、その本は手もとにいつもないとダメと考えますね。
しかし時間がたてば、そうでないことも多いのです。

もっと必要な本が、出てくることも多いのです。
そうであれば古本や、公的にある本でいいのです。

いまの自分の考えに、こりかたまり柔軟な考えができません。
それゆえに、苦しんでいるのです。

「自分のできる、ほかのことをしよう」と考えれば、古書店や図書館に行けばいいのです。
それだけのことです。

さらにこの「自分のできる、ほかのことをしよう」を応用させた、考え方もあります。
それは「自分の今できそうなことに、目を向ける」です。
これは葛藤で身動きできない人に、効果的な考え方です。

葛藤で身動きできない人は、こころにゆとりがなく「自分の今できそうなことに、目を向ける」こともできません。

よって葛藤で身動きできない人は、「自分の今できそうなことに、目を向ける」ことそのことによりぱっと目の前が開かれます。

ある男子大学生は、ガールフレンドのことで悩んでいました。
そのガールフレンドは、支配的な性格だったのです。

ガールフレンドの支配的な性格ゆえに、まったく主導権のもてない状態だった。
それゆえに、まったく身動きできなかった。

そこで、「自分の今できそうなことに、目を向ける」ことにしました。
当然、ガールフレンドの支配的な性格ゆえにぶつかり合いました。

その結果、そのガールフレンドを必要としていない自分に気付きました。
「自分の今できそうなことに、目を向ける」と、ある意味で人を必要としなくなるのです。

自分のできそうな範囲に目がいきますから、人を必要としなくなるのです。
自分が自分自身の、主体になれるのです。

やがてその人は、ガールフレンドの支配的な性格に、嫌気がさしました。
主導権のもてない、まったく身動きできない状態に嫌気がさしたのです。

その人はガールフレンドとの交際よりも、自分の生活を大切にするようになりました。
軸足を自分自身の生活に、移したのです。

そうすると自然に、その人はガールフレンドに拘束されなくなりました。
ノーはノーと、はっきりと言うようになったからです。

そのとき同時に、自分の生活を見直してみたのです。
それは「ガールフレンドの支配的な性格は、自分にとってプラスなのか?」と、いうものでした。

このことにもノーはノーと、はっきりと言うべき時がきたのです。
それは、先延ばしにされてきたことです。

このように「自分の今できそうなことに、目を向ける」と、ある意味で人を必要としなくなり、別の可能性に目も向いていくのです。その結果、ガールフレンドの支配的な性格ゆえに別の道を歩むことにしました。

葛藤で身動きできない人は、「ダメだ」と諦めがちです。
しかし、これからは「自分の今できそうなことに、目を向ける」ようにしましょう!

そうすれば、新しい道を歩めるのです。
今の道は、必ずしもベストではありません。

この「今の道は、必ずしもベストではない」ということから、導き出される考えがあります。
それは「成功、失敗はそれほど問題ではない」ということです。
これも葛藤で身動きできない人に、効果的な考え方です。

そもそも成功や、失敗にこだわると視野が狭くなります。
この視野が狭くなることにより、成功や失敗はさらに重大視されるのです。

よく考えてみれば、「人間万事塞翁(さいおう)が馬」なのです。

【昔、中国に住んでいた老人の馬が逃げたが、数か月後、優秀な馬を連れて帰ってきた。その老人の子がその馬に乗り落馬して足を折ったが、おかげで兵役を免れて命が助かった】というお話が、「人間万事塞翁(さいおう)が馬」のゆらいです。

このようにそのとき不幸だと思ったことも、後で幸福に変わるのです。
人生はオセロのようなものです。

よって「成功、失敗はそれほど問題ではない」のです。
そのときの「成功、失敗を問題視」することは、まったくありません。

失敗は「馬が逃げた」や、「子がその馬に乗り落馬して足を折った」です。
成功は「優秀な馬を連れて帰ってきた」や、「兵役を免れて命が助かった」です。

大切なことは失敗と成功が、連なっているということです。
一つの大きなストーリーの、一部だということです。

さらにこのことから、導き出される考えがあります。
それは「勉強になった」ということです。
これも葛藤で身動きできない人に、効果的な考え方です。

これは「失敗がすべてではなく、勉強になったこともある」ということです。
何ごとも、勉強でもあります。

たとえば就職先を比較的はやく退職することになっても、仕事そのものもそれを通しての人間関係も学びました。

けっして、マイナスだけではありません。
プラスもあります。

ただ後者(プラス)に、気付かない人がいるだけです。
その気付かないことが、ミスなのです。

多くの場合、マイナスにだけ目がいきがちです。
その結果、プラスに気付きません。

プラスに気付けば、マイナスにだけ目もいきません。
そして、さらにプラスに気付きます。

それに本当の意味で失敗であるか成功であるかは、人生の最後の日まで分かりません。
誰にも、分かりません。

ただ「失敗がすべてではなく、勉強になったこともある」ということのみが、いま分かるのです。
これは大切です。

さらには、次のことも事実です。
それは「誰にでも、失敗はある」ということです。
これも葛藤で身動きできない人に、効果的な考え方です。

野田総理大臣でも、失敗はあります。
誰にでも、失敗はあります。

このように誰にでも失敗はあるのですから、失敗そのものは一般的なものです。
それを個人的なものに、自分だけのことにしてしまい苦しむのです。

自分だけが失敗し、誰も失敗していないと苦しむのです。
このように失敗そのものより、思い込みで苦しむのです。

失敗の経験を共有することにより、人間関係も前に進みます。
多くの場合、とても親しい人に失敗談を語ると人間関係は深まります。

そもそも成功した人は、多くの失敗を経験しています。
これが事実です。

我々は、成功した人の多くの失敗を見落としてもいるのです。
これも事実です。

このように、失敗そのものは一般的なものです。
人生の、一つの出来事です。

また次のことも、大切です。
それは、あなたの「失敗に気付いていないだろう」ということです。
これも葛藤で身動きできない人に、効果的な考え方です。

あなたが失敗したときに、多くの場合、誰もその「失敗に気付いていないだろう」ということです。あなたの失敗に対する主観的な苦しみが、そう思わせているだけです。

さらに神経症の人は、『人の噂(うわさ)も七十五日』と考えることもできません。
その結果、誰もその「失敗に気付いていないだろう」ことを、いつまでもくよくよ悩むのです。

ある高校生は、クラス全員の前で順番に「調べたことを一人で発表する」という国語の授業に強く不安を感じていました。その授業を欠席することも、考えるほどでした。

この高校生は、クラス全員の前で一人で発表するときに、あがってしまうことを恐れていたのです。
その恐れから、強く不安を感じていたのです。

この場合、誰もその「失敗に気付かないだろう」ということを見落としているのです。
それに気付くための、質問を用いてカウンセリングは行われました。

その質問は、「いままでクラス全員の前で一人で発表するときに、あがってしまった人はいますか?」というものでした。

この高校生はその質問に対し、次のように答えました。
「発表するときに、あがってしまった人はいないと思う。」

おそらくクラス全員の前で一人で発表するときに、あがってしまった人はいるはずです。
この高校生はそれに、気付いていないのです。

そのように自分も人の「失敗に気付かない」のですから、逆に人も自分の「失敗に気付かない」可能性のほうが高いのです。

しかしながら神経症的な人は、そう認められません。
自分だけは「失敗に気付かれている」と、マイナスに考えます。

そこには、マイナスの自己イメージがあります。
そのマイナスの自己イメージは、自分で自分を認められないがゆえのものです。

すなわち、そこには自分に対する否定的なイメージがあります。
その否定的なイメージが、他者は自分の「失敗に気付いている」とマイナスに考える土台になります。

自分自身を否定的にイメージするがゆえに、他者は自分の「失敗に気付いている」とマイナスに考えるようになります。そこには自分自身の認められなさが、潜んでいます。
この否定的なイメージを、前向きなものにすることこそがカウンセリングの目標になります。

次に神経症の人の「思い込み」は、目標そのものの不適切さによっても起きます。
この葛藤により身動きできない人は、「目標そのものは適切であったか?」と考えてください。

神経症の人のは、目標そのものを「何が何でも達成しなければいけにもの」と考えがちです。
それゆえに目標とその結果にしがみ付くことになってしまいます。

ただしその目標は、そもそも不適切なものかもしれません。
それに「失敗は成功のもと」の、失敗の可能性もあります。

「目標そのものは適切であったか?」と考えるために、高校生の例を述べます。
高校の文化祭でのことです。

文化祭の「お笑い大会」です。
高校生ですから当然ながら、対抗意識はあります。

それに「お笑い大会」ゆえに、誰が最もうまいのかも難しいのです。
運動会の、競争のようにはいきません。

この高校生は、「お笑い大会」での優勝を目的にしました。
何が何でも、優勝したいと思いました。

ありとあらゆる事を考え、そしてしました。
この人の結果は、おもわしくありませんでした。
そこで、「目標そのものは適切であったか?」と考えてみたのです。

この高校生は「お笑い大会」での優勝を目的に、ありとあらゆる事を考え、そしてしました。
だがしかし、この優勝を目的にすること自体が適切でしょうか?

そもそも高校生の「お笑い大会」ですから、楽しく行えばそれでいいのかもしれません。
それに優勝は、あくまでも結果です。

結論は内容が大切であることには、プロもアマもありません。
これこそが、かんじん要のことです。

この高校生は、かんじん要のことを横に置いてしまったのです。
そしてそれが、「目標そのものは適切であったか?」と考えてみたときに現れた答えです。

このように失意にある人は、自分を迷路に入れがちです。
それが最大のミスです。

さらにこのような神経症の人の「思い込み」として、「失敗は一巻の終わり」というものもあります。すなわち『失敗により物事の結末がすべてついてしまい、先の望みがまるでない』と考えるのです。

これは、神経症の人の否定的な「思い込み」です。
現実にはこの否定的な「思い込み」こそが、「失敗は一巻の終わり」にしてしまうのです。

失敗の側には、失敗の要因はないのです。
その人の否定的な「思い込み」こそが、失敗の原因です。

ある学生はレポートの提出後に、小さなミスに気付きました。
そのことが、心配でどうしようもありません。

それはほんの小さな言葉の、言いまわしです。
それが心配でどうしようもありません。

この人はその小さなことを、「失敗は一巻の終わり」と考えたのです。
すなわち「もう、先の望みがまるでない」と考えたのです。

この人は小さなことであるにもかかわらず、それも分からないぐらいの気持ちに陥りました。
それゆえに、「もう、先の望みがまるでない」と考えたのです。

このように神経症の人を苦しめるのは、自分の思い込みです。
事実ではありません。

事実はそれほどではないのに、神経症の人を苦しみます。
苦しめているのは、自分の思い込みだけです。

このような神経症の人の「思い込み」として、「完ぺき主義」も潜んでいます。
すなわち『すべては、完ぺきでなければいけない』と考えるのです。

このように『すべては、完ぺきでなければいけない』と考える人は、すべてを評価しがちです。
現実を、すべて評価ということから考えます。

その結果、現実は常にマラソンレースになりがちです。
自分が、常にマラソンを走っているのです。これは、疲れます。

『すべては、完ぺきでなければいけない』と考えれば、少しのミスも許されません。
ほんの少しのミスも、将棋倒しの切っ掛けになります。

おもそも、世の中に完ぺきなものはありません。
その事実に、気付いていないのです。

それゆえに、自分は『すべてを、完ぺきにしなければいけない』と考えます。
少しのミスも許されません。これが将棋倒しの、大きな理由です。

さらに『すべては、完ぺきでなければいけない』と考えるゆえに、ハードルが高すぎます。
最初のハードルから、高すぎるのです。

そのために最初のハードルから、倒してしまいます。
自分も、倒れてしまいます。

ここから将棋倒しも、始まります。
すべてのハードルは、こころの中で倒れています。

本当は最初のハードルだけが、倒れているだけです。
しかしすべてのハードルは、こころの中で倒れているのです。

そのこころの中で倒れている最初のハードルが、事実になります。
それゆえにすべてのハードルも、倒れているのです。

事実は最初のハードルだけが倒れていても、すべてのハードルはこころの中で倒れます。
カウンセリングの目的はこころの中でも、倒れているのは最初のハードルのみであると認知することにあります。

このようなこころの中の否定的な思い込みの修正は、とても意味深いものです。
それは否定的な思い込みは、その人の全人格にも及んでいるからです。

このように自分は『すべてを、完ぺきにしなければいけない』と考える人に、適切な解決方法があります。それはその日に自分のしたこと、ただその事実だけをノートに書く方法です。

そこに評価は、まったくありません。
その日に自分のした、その事実だけがあります。

その事実だけ書かれたノートを見れば、気付くことがあります。
それは評価なしでも、ものごとは行えるということです。

この人の『すべてを、完ぺきにしなければいけない』という考えは、すべて評価だという考えと表裏一体なのです。

逆に言えば、すべて評価だから『すべてを、完ぺきにしなければいけない』となるのです。
この表裏一体の考え方そのものを、くつがえすことこそが大切です。

そのために、その日に自分のした事実だけをノートに書く方法を用いるのです。
このように神経症の人を苦しめるのは自分の思い込みであり、事実ではありません。

次に神経症の人を苦しめる思い込みとして、「自分は足踏みしているだけ」があげられます。
この「自分は足踏みしているだけ」という思い込みは、自分の能力に対する考え方と表裏一体です。

すなわち多くの場合、「自分は足踏みしているだけ」という思い込みを持つ人は、自分の能力は固定化したものだと考えています。

「自分は足踏みしているだけ」という思い込みは表で、自分の能力は固定化したものだと考えは裏です。そして自分の能力は固定化したものだという考えが、表を歪んだ形で支えてしまっているのです。

「自分は足踏みしているだけ」という思い込みは、歪んだ形で支えられています。
その歪みは、歪みゆえにその人を苦しめます。

多くの場合、こころの歪みは柔軟性に欠けています。
自由度に欠けているが、ゆえにその人を苦しめます。

こころでも身体でも、自由度に欠ければその人を苦しめます。
その人のこころが自由度を、とり戻すことが大切です。

そのために「自分は足踏みしているだけ」という思い込みは、変わる必要があります。
そもそも歪んだ思い込みゆえに、変わる余地もありえます。

それを変えていくのが認知療法であり、認知行動療法です。
この場合、軸足は認知療法に起きます。

この人のものの考え方は、「自分の能力は固定化したもの」だということが土台です。ただし、それは正しいでしょうか?

何ごともやればやるだけ、実力もつきます。
何を能力と言うかにもよりますが、「能力は固定化したもの」ではありません。

それに「能力は固定化したもの」と考えることにより、固定化したものにもしてしまいます。
やればやるだけ実力も、能力もつくと考えればより柔軟なものにもなります。

自分で決め付けて、自分で苦しむのです。神経症の人は、このスタイルが多いのです。
それをモデルにより、さらに述べます。

ある男子高校生は、話がスムーズにできないという悩みがありました。
そこで学校では図書室、休日は図書館にいることが多かったのです。
図書室や図書館は、人と話さなくてもいいからです。

この高校生は自分で話がスムーズにできないと、決め付けていました。
その決め付けにより、自分で苦しんでいたのです。自作自演の苦しみです。

そこでカウンセラーは、こうアドバイスしました。
「図書館の職員に、本のことをたずねてみたら・・・」

強制しないように、弱く提案しました。
それもあってか、心持ちうなずきました。

それから後は、実行です。
図書館の人に、本のことをたずねてみるようにしました。

最初は「~~という本は、どこにありますか?」という、事務的なやり取りでした。
そこから、スタートしました。

やがて「いま、どんな本が読まれていますか?」というような話に、変わっていきました。
会話を、深めていったのです。

しかしそれでも、その高校生は話がスムーズにできないといいました。
やはり決め付けにより、自分で苦しんでいたのです。

そこでカウンセラーは、こう尋ねました。
「去年の今頃は、人とどれほど話がスムーズにできましたか?」

それに対して、高校生は「まったく人と話さなかった」と答えました。
このとき話がスムーズにできないながらも、話せる今の自分に気付きました。

この人は「能力は固定化したもの」と考えていましたが、その間違いにいま気付きました。
現実にやっただけ実力も、能力もついたのです。

このように去年の今頃と比べれば、進歩しているのです。
それに気付かないだけなのです。

その気付かない理由は、「能力は固定化したもの」という考えです。
本当は、壁はありません。壁は、こころの中にあるだけです。

ただし「完璧さ」を求めれば、誰しも壁はできます。
それよりも、「前よりどれぐらい進歩したか」を考えた方が建設的です。

この人も「能力は固定化したもの」と、考えなくなりました。
そこから社交術も、身につけていったのです。

社交術を身につけることにより、「能力は固定化したもの」と考えなくなりました。
「能力は見につけるもの」と、考えるようになりました。

(完璧さという)抽象的なものを求めれば、誰しも壁に突き当たりがちです。
それよりも、(前よりどれぐらい進歩したかという)具体的に考えた方が建設的です。

この人も自分に対する否定的な壁に、目を留めることが少なくなりました。
それと相前後して、前よりどれぐらい進歩したかという具体的な考えが増えました。

このように歪んだ思い込みを、変えていくのが認知療法です。
神経症の人の考え方は、「失敗したら、これからたいへんなことになる」と考えがちです。
これも歪んだ思い込みです。

現実に誰でも、「失敗したら、これからたいへんなことになる」と考えた瞬間、
ものごとは大きなものになります。失敗してもいないのに、たいへんなことになってしまうのです。

自作自演の話は、こころの中で先ずスタートします。
そこから、さらに自作自演の話は現実の中でもスタートします。

たとえば「人前で顔が赤くなったらたいへんだ」という自作自演の話は、こころの中で先ずスタートします。
そこから、さらに自作自演の話は現実の中でもスタートします。人前で顔が赤くなったりしだすのです。

それは、次のようになります。
「人前で顔が赤くなったらたいへんだ」→こころの中でスタート→「現実の中でも人前で顔が赤くなったりしだす」

そして、「さらに、人前で顔が赤くなったらたいへんだ」→こころの中でさらにスタート→「さらに、現実の中でも人前で顔が赤くなったりしだす」
このような悪循環は、「失敗したら、これからたいへんなことになる」という考えを土台とします。

認知療法では、「失敗したら、これからたいへんなことになる」という土台をチェンジします。
それは、「失敗したら、次に何をするか」というチェンジです。

野球でも内野手がミスをしたら、他の内野手はカバーします。
このように、「失敗したら、次に何をするか」ということまで視野に入れておくのです。

そうすれば「失敗したら、これからたいへんなことになる」という考えに、支配されなくなります。
その考えに支配されてしまうのは、「失敗したら、次に何をするか」ということの不在によります。

そうやって、「失敗したら、次に何をするか」ということを視野に入れることを学習すればいいのです。
そうすれば、「失敗したら、これからたいへんなことになる」と考える必要もありません。

お正月に、初詣に出かけるとします。
その時に電車が不通の場合は、行き先を変えてもいいのです。

そうすれば電車が不通の場合でも、柔軟に対応できます。
行き先を変えて、かえって良かったことも多いのです。

このように、「失敗したら、次に何をするか」ということを視野に入れることこそが、「失敗したら、これからたいへんなことになる」という考えを真に正すことです。

その改善は、こころの不自由さからの解放です。
この不自由さからの解放こそが、ポイントです。

神経症、ノイローゼからの解放はこころの不自由さからの解放です。
この不自由さは、自分自身を拘束するものです。

このように歪んだ思い込みを、変えていくのが認知療法です。
歪んだ思い込みを変えていくには、「失敗しても、やらないよりはいい」と考えることも大切です。

スタートする前から「もうダメだ」と考えることは、それだけで失敗です。
それに成功、失敗は本質的なものともいえません。

クーベルタンの言うように「オリンピックは参加することに意味がある」であり、「人生は努力することに意味がある」のです。

そう考えれば、将来に不安を抱くこともありません。
さらに過去に、苦しむこともありません。

このような人の歪んだ思い込みを変えていくために、「行動記録法」があります。
この方法は、歪んだ思い込みを変えていくのに有効です。

その「行動記録法」は読んで字のごとく、1時間ごとに「行動」を「記録」する「方法」です。
その行動ごとに「喜び」と、「習熟度」を自己評価するのです。

多くの神経症、ノイローゼの人は行動する前で立ち止まっているのです。
行動する前に、とどまっているのです。

広い意味では『浦島太郎』に、なってしまいます。
イメージの中で、ものごとは起きています。しかし、現実にはまったく何もできません。

しかしより正確には神経症、ノイローゼの人は『浦島太郎』の逆になってしまいます。
『浦島太郎』は、楽しい思い出の中にいました。神経症、ノイローゼの人はその逆です。

ある人は「行動記録法」により、生活の「喜び」をとり戻しました。
この人は先ず「行動記録法」で、自分自身が「行動」しないでいることに気付きました。

神経症、ノイローゼの人はイメージは、活動しています。
しかし現実は、まったく何もしていません。

そこで自分が「行動」しないでいることの気付きから、生活を見直してみたのです。
その結果、先ず「行動」することにしました。

自分が「行動」してみれば、新たに生活を発見します。
それは、「案ずるよりは生むが易し」ということです。

そうすると、新たな気付きが生まれます。
それは、「行動することは楽しい」ということです。

このようにして、引っ込み思案の人から行動を引き出します。
そしてそれは、自然に起きます。

それに多くの神経症、ノイローゼの人は家族から「何かしなさい!」と、行動を強制されています。当然カウンセリングは、そのようなことはしません。その人から自然に、行動を引き出すのです。

そして自然に行動を引き出せれば、「行動することは楽しい」ということに気付きます。
このようなプラスのメカニズムが、すべてに動き出すのです。

このように「行動記録法」は否定的な壁である、神経症の人の「思い込み」に気付くだけではありません。
それを前向きなものにも、書きかえるのです。

そう考えると、「けっして、今いる状況は悪くない」ということも理解されます。
この人が前向きに生きるためには、それを後押ししてくれる「今いる状況」は必要なのです。

今いる状況こそが、その人をプッシュするのです。
プッシュする状況にいることは、幸運なのです。

それに気付くには、「行動記録法」が必要です。
「行動記録法」により、否定的な壁を前向きなものに書きかえましょう。

あなたの問題は、否定的な壁を前向きなものに書きかえられないことにあります。
現実は、それほど悪くはないのです。

現実には否定的な壁は、ありません。
それは、あなたをプッシュする状況です。

そのプッシュに沿って、行動してください。
行動すればするほど、気持ちはさらに楽になります。

あなたは、こう確信します。
「考えることよりも、行うことが大切」

神経症、ノイローゼの人は考えているだけです。
それもマイナスのことを、考えているだけです。

神経症、ノイローゼの人は結果だけを、考えてしまうのです。
その「マイナスの思い込み」ゆえに、歩めなくなってしまいます。

なお高校生、大学生で「勉強しよう、勉強しようと思っても勉強できない」と言う人は
このような迷路をさ迷っていることが多いのです。

現実に「勉強しよう、勉強しようと思っても勉強できない」と言う人は、
「勤勉さ」を身につけることこそが大切です。

その「勤勉さ」を身につける具体的な方法が、、「行動記録法」です。
「行動記録法」により、否定的な壁を前向きなものに書きかえましょう。

そのときに「勤勉さ」を身につけた自分に、誇りもてるのです。
自分をOKだと、思えるのです。

次回に、さらに述べます。  

Posted by counselor at 13:19Comments(0)カウンセリング